絵日記を辿って1~土谷重美

絵日記を辿って
今、2 つの小折を前にして溜息をついている。一つは学生時代からのアルバム、もう 1 つは学生の頃から書き留めた日記、終末を前にして断捨離をせよと家内に迫られる。こうし て見返してみるとつくづく子育てが人生の華だったことを知る。

日記は学生時代からその日の出来事をメモ代わりに書き留めて来たものだが、字が汚くて後で読む気もしない。それで途中から説明用の挿絵を入れるようにした。これならパタ ーン認識、絵を見るだけでその日の出来事を思い出す。

ワープロも無かった時代、鉛筆なめなめの報告書の字が余りにも汚いことを恥じ、習字の練習も兼ねて筆ペンを使うように した。途中から絵にドライパステルを使って着色、面倒ではあったが墨の輪郭とうまくマッチした。処分する前に絵日記の一部を紹介しよう。

1.東京時代
昭和 45 年に入社、大阪の本社で営業を含め見習いの様な教育の後、47 年の秋から東京の営業所勤務となった。広い市場のこと、出張の機会も多くなり、宿での時間潰しに手近にあるものを日記の挿絵とした。

翌年春に結婚、新所沢の独身寮から横の社宅に移った。社宅は他に鎌倉と飯能にも在ったが、ここは飯能にある工場と日本橋の営業所どちらにも行けると言うロケーション で独身寮と 4 階建てのマンションが 3 棟あった。駅まで 10 分、駅前の商店街は緑町と言い、休みの日には西友と商店街を抜けたところにある中央公園でよく遊んだ。

駅の反対側にはバッティングセンターやテニスコートがあり、少し離れて自衛隊の基地跡が公園となって広がっていた。又、駅から少し離れると社宅の周りには畑とクヌギ林が広がり、何処まで行っても平地で関東平野の広さを感じた。

結婚 3 年目で子供が生まれ、この子が自転車に乗れるようになってからは親子 3 人自転車を連ねてあちこちを探検して回った。又、子供が出来るまでの休日は油絵(ハイムの広場美術館参照)や木工細工をして社宅の傷隠しや飾りを作った。アッと言う間の 7 年半であったが、思い出深い時代であった。

<最初の頃>

身の回りに在った品物や宿泊先の調度品など描き添えた。質流れ品のタイプライター
(オリベッティイレッテラブラック)は、遊びで買ったものだが後にパソコン時代が来て人より速くキー入力が出来、思わぬところで役に立った。

<出張先>
当時は、静岡と新潟が多かった。直江津で泊まった旅館いかや旅館は建て替えられて今や立派なホテルに変身している。出張、窓から見える富士をスケッチ。

<仕事>

6

我々の部隊は非主流で商品に競争力がある訳でもなく、特定顧客がある訳でもなくザラ場漁りの営業であった。笛吹けど踊らず、会議で「駄馬が屑担いで歩いている。」と言ったら先輩にひどく叱られた。

オイルショックの後は不景気で競合他社でも 3 割も人員削減をしたところもあり 我々が頼りにしていた設計部隊も解散。皆バラバラになった。仕事が終わったら、近くの居酒屋で一杯。グチを言いながら憂さを晴らした。

7

そんな時、飛込営業でブラウン管工場の自動化の話に出会った。当時日本のブラウン管生産量は本家米国を抜いて世界一。中でも蛍光塗料を塗る塗布工程は沢山の人が働いており、その人達の出す埃で歩留り(製品の中で合格品の割合)が悪かった。不景気で優秀な設計者が空いている状態も幸いして塗布工程の無人化に成功。客先ではその年の社長賞を受賞して関係者は皆1 階級特進。その後も次々と受注が決まって、私の営業スタイルの原点となった。

8

コートやスーツを買ってもらった時。新所沢始発 7:20 に乗って高田馬場経由で日本橋の事務所に通った。仕事帰り高田馬場の古本市に立ち寄る。

 

 

 

 

 

休みの日は、社宅の連中とよくテニスをやった。この頃習ったお陰で今も近所の連中とテニスを続けている。


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