Tsuzyの絵日記10~大阪能勢の時代1

4.大阪能勢の時代

家族を先に帰す事にして義母の住む豊中近辺に家を探したが、既にバブルが始まりとても手が出ず、大阪の北部豊能郡豊野町に家を新築した。工場に居るものとして通勤のことは考えていなかったが、1年後の1991年再び大阪営業所に移ることになり、能勢の田舎から梅田まで1時間半、満員電車に揉まれながら通勤するハメになった。通勤には不便であったが家直ぐ近くまで山が迫り子育てには良い環境であった。子供達は念願の犬を飼うことになり、15kmの散歩が必要と言うラブラドールを連れて山の中を走り回った。鹿が近くまで顔を出し、犬も鎖を振り切ってこれを追い回した。

千里中央までトンネルで繋がると言うし、直ぐ近くを新名神が開通することになっていてこれからは便利な場所になるだろう、値も上がる筈と目論んでいたが、箕面トンネルは17年、新名神に至っては27年もかかり、同じ頃入居した町民は皆高齢化、車に乗れなくなると市内のマンションに移り住む人が多くなり最近では空き家目立つようになって来た。30年も済めば上屋の価値は“0”、土地は半値になってトータルでは1/4に。子供達が通っていた時には3クラスもあった小、中学校も1クラス維持するのが精一杯。統合して小中一貫校にする案が議論されている。あれほど満員だった能勢電も今はガラガラ。時代の移り変わりを感じる。

<絵の説明>

1-a,b,c 家の近くが山なので、モトクロスバイクでよく山道を走った。

2-a 父が急に心臓麻痺で亡くなり、能勢の山奥に墓を作ったが、誰も参る人は居ない。

2-b 父が亡くなり、独りになった母は住み慣れた田舎を出て、岐阜の妹と一緒に住み、内職を手伝うことになった。空いた家は、山の上に住む人が借りてくれることになり、家財類を処分。不要なものは燃やした。この処分に延べ1週間くらいかかった。

2-c 父が作った欅の臼を持って帰り、テニス仲間を誘い、庭でお餅つき。餡も田舎の製餡所で買った。搗き立てのお餅をほおばって皆大喜び。

2-d 餅つきは年末、5月の草もちと年2回これは数年続いた。今この臼は娘が使っている。

2-e 初詣は丹波篠山の春日大社。混雑も無く焚き火が暖かい。

2-f,g,h 母も近くに居なくなって、日立の弟宅で何度か正月を過ごした。大阪よりこちらの方がずっと暖かいし、企業城下町で立派なテニスコート沢山ある。小名浜まで走れば北海道から漁船が入って来てカニをはじめ新鮮な魚が手に入る。

2-i 逆に弟一家も日立市から帰って大阪で正月を過ごすこともある。長女と1つ違いの女の子がいるところから一緒に良く遊んだ。この年はカラオケに。

2-j 家内の従弟の結婚式に娘達が歌をプレゼント。「踊るポンポコリン」に皆大喜び。

3-a 母とその姉、どちらも連れ合いに先立たれた二人を連れて四国参り。兵庫工場の時に制度化されたリフレッシュ休暇を使ってこの時が2回目、結局八十八ヶ所を回って高野山に満願成就を報告するのに4年もかかった。絵は遍路宿に泊まりながら明日の参拝のお札を準備する二人。老人の足腰を考えれば、この時回っておいて正解だった。

3-b 車なら156ヶ所を参拝して回われるが、足摺岬の方は寺の間が遠いので123ヶ所が精々。大阪からスーパーカブでお遍路しているお爺さんにも会った。

4-a 娘が小学校に入って初めての運動会。

4-b 娘が家の近くのエレクトーン教室に通い出した。絵はその発表会

4-c 大阪であれば母校アイスホッケー部の試合も応援に行ける。練習も試合も深夜。

4-d テニスの対外試合をやった後、簡保の宿「能勢の郷」で湯に浸かり打ち上げ会。

~つづく~

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